人類は 「塩分」 を摂取しないと生きられません。
日本は周囲を海で囲まれており古来より海水から塩を造っていました。
「敵に塩を贈る」 という美談・故事を耳にした事があると思います。 戦国時代に甲斐の武田信玄が、隣国の今川氏・北条氏と敵対した時期、今川・北条が武田領への塩の輸出を禁じたため、山国で塩の無い武田の民百姓は非常な塩不足に苦しんだそうです。
その時期、越後の上杉謙信も北信濃の支配権を巡って武田信玄と敵対 (数回に及ぶ川中島の戦いが有名) していたが 「争うべきは弓箭(ゆみや)にあり、米・塩にあらず」 として、今川・北条の塩輸出禁止令を無視し、日本海糸魚川の塩を武田領松本への輸送を認めたと伝えています。
真偽について諸説があるようですが 「敵に塩を贈る」 美談のもとになったようです。
その塩を運んだ道は、日本海側の糸魚川から小谷・白馬・大町を経て松本まで120km、三十里も続き、「塩の道・千国街道」と呼ばれています。
糸魚川からは塩や魚など、そして松本からは麻・綿・大豆などの生活物資を牛馬の背に乗せ険しい峠道を行き来した、参勤交代などには全く縁のない生活物資輸送の街道でした。
明治時代に、この街道とは別ルートで新しい道が建設され、拡幅されて現代の国道に発展しましたが、古い街道はそのまま残り懐かしい風情を今に遺しております。
その街道に石仏が沢山立ち並んでいると聞き、糸魚川市の根知から小谷村への峠道、大網峠・地蔵峠・天神道などの山道を少し歩いてみました。
「熊出没・注意!!」 の立て札も多く、熊よけ鈴を大きく鳴らし、熊の糞を踏まないように注意しながらの登坂でした。
峠道の急斜面は、とても牛馬が通れるような道幅は無い。
45年程前に、ここのスキー場でバッジテストを受け 2級に合格したが、その時のゲレンデの積雪を思うとき雪の峠道を歩む姿はとても想像できなかった。 |